生存バイアスから見る人間の生きる目的

私たち人間の生きる目的ってなんでしょう?

私は人を育てる、子育てをすることが生きる目的だと思っていて、お金を稼ぐ理由もその目的を達成するためです。

そしてそれは人類全員に共通する目的だとも思っています。そもそも人間という種族はそのような目的をもって生まれた生物だと考えています。

もちろん、進化によって本能とは別の理性を手に入れた私たちが、たかだか遺伝という要素のみで人生の目的が確定されるというのは本能に依存しすぎており、理性の敗北ともとれるかもしれません。
しかし私は、理性によって本能の要素を駆逐するのではなく、どうしようもない本能に理性をもって幅を利かせ、共存しつつより良い繁栄を目指すことこそが理性の使い方だと信じています。

結局のところ理性とは恵まれた状態でしか本領を発揮しない機能で、例えば切羽詰まった死の恐怖の際で理性を働かせることのできる人はほとんどいないでしょう。理性はマニュアル、本能はオートマであり自由度は理性の方が上ですが作業効率的にはオートマに分があるため、全力を出す必要がある機会(火事場)などでは本能に従った方が効率的です。

そしてどうしても死に直面する機会は人生において存在します。高齢の方々などは特に若者以上に死の恐怖を感じます。
その際に必要なのが本能であり、やはり人生において幸せを感じるには本能をメインに考えて理性で補填しているスタイルが正しいです。

そして本題。そもそもなぜ人間は繁栄、つまり後世のための人間を育てる子育てが主たる目的なのかという話です。

まず私たちの体の機能がそうなっています。死が近い状況になると勝手に体がストレスを感じアラートを発します。
「傷を負ったら痛い=死に近づくとストレス」という機能そのもののせいで、我々は生き続けることを余儀なくされています。生きるための指標を決めるコンパスが体の中にあり、その通りに動かなければストレスを感じるという機能が最初から備わっています。
生まれた時から死はストレスであり、死から遠ざかる事こそが幸せだと調教されているわけです。

これは種を増やす行為に快楽が伴うという機能からも見て取れます。
生存行為にも、その模倣である自慰行為にも快楽が伴いますし、ほとんどの人間が異性に好意を寄せるのもその表れでしょう。

つまり死に近づくことはストレス、種を増やすことは快楽という人間の機能が、本能を形づくっているというわけです。
もちろんこれら本能に対して理性を使って背くことはできます。が、やはり生まれた時から現在まで続く調教にあらがうのはとても難しいでしょう。

なぜ人間はこのような機能を持っているのでしょう?
それには10万年以上かかって培われた生存バイアスがかかっています。現在生きている生物は全て人間と同じく種の繁栄を目的としているはずです。

そもそも種の繁栄を望まない、怠け者というか死にたがりな生物は10万年も生き永らえません。
もしかしたら人間に近しい種がこれまでいたのかもしれませんが、死を避ける体の機能がない種は生存競争において不利です。
人間は幸運にも死に対して痛みというアラートをもっていたためたまたま生きることに長けていたというわけです。

そして10万年以上も種が生存しているというわけで、つまり今現在私たち人間が存在しているという=人間の生きる目的は種の繁栄ということになります。
もっというと生存バイアスによって今まで生きている生物=その生物の目的は種の繁栄とも言い換えることができます。

つまり人間の生きる目的は種の繁栄であるというのが私の持論です。
その目的に沿っていれば必ず私たちは幸せになります。なぜなら私たちの体の機能がそうなっているからです。

種の繁栄が目的ということで、自分自身を生き永らえさせることにも幸せを感じます。
自分の個体が減らない=個体数が減少せずに衰退しないですからね。
この目的は明日生きるためのお金を稼ぐことや、体を健康にするというモチベーションにもつながっているはずです。

ただしいつかは終わりがきます。その際に個体数が減る=繁栄とは真逆の衰退を起こしてしまうというストレス、不幸せから逃れるためにはやはりそれまでに個体数を増やす努力をしていたか、その1点に尽きると思います。
なので子供のため、後世のための活動をしましょう。
間違っても子供を育てる人たちの邪魔になるようなことはしないようにお願いします。