私は対戦相手が見えていない

 別に陰謀論を展開する訳ではなく、ただ淡々と自分の人生の立ち回りを反省する話。

 

私はゲームを良く嗜んでいて、人生もゲームであるという思想が無意識の中に潜んでいる。

人生をゲームと捉えた場合、私の途中経過の順位は下から数えた方が早いだろう。

 

社会人2年目だが、キャリアアップのための勉強もせず、人生の伴侶も見つけようとせず、ただ毎日を楽に暮らしている。少なくとも現在は楽に暮らすことが出来ている。

 

死ぬまで、ゲーム終了までこのまま過ごせれば幸せだと言えるのかもしれないが、人生というゲームの勝利条件、私が考える人生の目的には則してないため息苦しさ、生き苦しさを感じている。

 

私は長年ゲームを嗜んでおりゲーム論については一家言あるが、私の嫌うゲームスタイルの一つに試合途中で勝利を諦めるというものがある。

 

勝利の定義が人によって違うことは承知していて、例えば麻雀で2位を狙う姿勢もルールによっては問題ない。また、二人零和ゲームに限っては途中で勝利を諦めて降参するのも全然問題ない。

 

3人以上の試合での勝利放棄、または2人戦で勝利を諦めて尚ゲームを続けるスタイルを私は嫌悪している。そのスタイルには対戦相手への敬意が足りないというのが大きな理由だ。

 

そういう思想を持っているのに、人生というゲームでの私の現在のスタイルは私が嫌悪するスタイルそのものになってしまっている。

 

今成績が悪いのは事実で、その理由も分かっている。それなのに順位を上げる努力をせず、ただ楽に生きてゲームの終了を心のどこかで願っている。こんなゲームスタイルのプレイヤーとは私はゲームをしたくないのだが、私は人生というゲームでこんな不敬をやらかしている。

 

なんで普通のゲームでは敬意を意識するのに人生ではその配慮ができないかを考えた結果、タイトルに行き着いた。

 

私は対戦相手が見えていない。

 

通常のゲームでは対戦相手が目に見えて定義されているため敬意を払うが、人生での対戦相手は意識し辛い。人生の対戦相手とは私以外の人間でこの記事を読んでいるあなた方だったりするのだが、その人達を私は見ようとしてこなかった。その結果現在のような体たらくである。

 

私を育ててくれた人、これまで付き合ってくれている人、その他諸々の人達が見えていない。そしてわかっていても尚、無視している自分がいる。見えてないというのは真剣になってないという意味と同義と捉えて貰って良い。

 

アスペルガー症候群という病名がある。人の気持ちがわからないとステレオタイプ的に理解していて、人付き合いが苦手な私は実は周りの人からアスペルガー症候群の判別テストを何度か出されたことがある。悪趣味なコミュニケーションの一つで、テスト出題者の意図が読めれば問題なく望む答えを出すことができてた。そんなテストで判別しなくとも私は人の気持ちも人並みに理解できてる自信はある。しかし私は理解はできるが、真剣になれないという個性がありアスペルガー症候群とは違う意味で人付き合いが苦手だ。というか、人付き合いが苦手なのではなく、真の意味で人付き合いをしてこなかったのだと思う。

 

真剣になれないという個性、ステータスが、今私の成績が低い要因の一つだ。自分興味のあるものしか真剣になれず、さらには飽きっぽく、自分が満足したら途中で放り投げてしまう個性は、現在の社会では不利な要素だ。そもそもこんな個性が有効に働く社会など想像できず、淘汰されるべき個性だとは思っている。

 

現在私の成績が低い原因はその個性であり、そのせいで対戦相手が見えておらず自分の中の自浄作用が働かない。とりあえずこれが一番治すべき、対策すべき要素である。

 

この社会、とりわけ日本は実は心地が良い。個性というものが集団より重視されるほど豊かになってしまい、私のような生活をしてても「人それぞれだから」「人の価値観を押し付けるな」と個人の正当性を訴える行為が賞賛される。社会としての自浄作用すら機能しづらい環境のため、このままでも良いんじゃないかなと危機感が湧いてこない。

 

民主主義の大きな欠点であり、その脆弱性をついて私たちは楽して行きている。

 

私は、実は危機感を抱いている。飢えてしまうという物理的な危機感ではなく、このままのスタイルが認められ生活できてしまう、その甘い罠、遅効性の毒に侵されてくような現状に精神的な危機感を抱いている。

 

このブログは今私の感じているものをそのまま書き綴って現状を整理するためのものだ。かまってちゃんと罵ってもらって構わない。人は表現する以上、全員がかまってちゃんなのだから。私は飽きっぽいのでこのブログの更新もすぐ終わってしまうかもだが、漠然とした危機感を吐き出す場所はこれからも必要で、多分それなりに長く続くだろう。

 

もしこのブログの更新が止まる時、それは精神的な危機感に何らかの答えを出した時だと思う。真剣になれない個性と折り合いをつけ、自分の持ってる人生の目標に向かって前進したときか、はたまた何も解決せず、今以ている人生の目標の方を捻じ曲げ、楽なまま生活するか。前者が望ましいが、私の個性では後者にしか行き着かない閉塞感も感じている。

 

 

色々話のテーマがぶれて一貫した主張ができず、私以外には理解しがたい文章になってしまった。とりあえず私は対戦相手が見えていないので、これからはもう少し対戦相手にも目を向ける努力をしてみたいと思う。まずそこからだろう。