私という哲学

哲学とかいう便利な言葉。

私という人間が11歳頃の学校でのいじめによって形成されたと常に思っていたのだがその詳細について言語化したくなったのでしたためてみる。

自分は小学5年の頃いじめられていた。といっても肉体的なものは全くなく、無視され続けるタイプのものだ。昨今のいじめ論に逆行するようだが原因は100%自分にあると当時は結論づけたし、今でも95%は自分が悪かったと思っている。自分は勉強ができるタイプの高慢なクラスメイトであり、皆の鬱憤が爆発した結果のいじめだった。起爆した理由は塾で習ってた数式を黒板で披露したことと記憶している。

確か半年ほど無視されて、5年の3月に書いた1年の振り返りではどん底だったと書いて、先生が皆の前でフォローしてくれた時に号泣し、6年に上がってからいじめはなくなった。なくなった理由は私が改心していい人になったからだった。

なんでいい人になったか。きっかけはフォローされて号泣した時に、自分は生きるに値しない人間であることを悟ったからだ。自分が自分であろうとすると周りから無視されてしまう。だから生きていくためには自分じゃない何かにならないといけないと思った。ちょうど春休みだったので好きな漫画や本を読み直した。理由はこの主人公のようになれば皆から好かれると思ったからだ。そして6年生からはあの憧れた主人公のように、高慢に振る舞わず、私の恵まれたところを周りに還元し、悪以外は無条件で友好的に接する私になっていた。その小学6年の生活はそれなりに充実して楽しかった。

そうして自分ではない何かでこれまで過ごしてきた。時折自分が出てくることがあり、出るたびにトラブルを起こすのでより一層自分を殺すようになった。だから自分はインターネットでアバターを介して遊ぶように人生を謳歌している。上辺で遊ぶ分には楽しいが、中の人が見え隠れするぐらいの距離になると途端に怖くなり逃げてしまう。そんな世界の見方で、でも所詮はゲームだしと斜に構えてしまうような自分なので、あまり本気で物事に取り組んだことはない。いい加減に生きてても生きていける自分、もしくは環境だったから生きているだけの存在だ。

こういう哲学の人はいっぱいいるんだろう。確かウィトゲンシュタインだったか、名前を呼ばれる、他者に認められる自分と、名前すら存在しない、一人でいる時の自分が存在して、そこには齟齬が存在すると説いていたし、同じような意見は漫画「あたしンち」でもあった。自分のように厳罰によって気付かされた人もたくさんいるはずだ。

要するに原理主義なんだと思う。粘土細工の最初の四角ブロックの状態、原初の形を崇拝している。そこからこねくり回して芸術品を作っていくが、胸中では原初からどんどん離れていって汚れていくと認識してしまう。もちろん今自分を出すと職も友も失うことは目に見えていて、おそらく落命さえするだろう。だから今の出来上がった私は生命活動の維持という生物の意義において明らかに自分より正しい。しかし自分ではない。自分では生きられないという厳罰が常に私を責め立てている。

最初から自分が生きるに好ましいものだったらそもそもアバターを作る必要はない。自分は違った。アバターを作ったとしてそれを自分と置き換えて過ごせる人なら研鑽できた。自分は違った。自分に厳罰があるとしてそれを許せるほどの幸いがあれば前に進めた。自分は未だあの11歳の厳罰に足る幸いを見つけられていない。

これが私の哲学で、自分という人間である。これを書いてる今も私は私であり、自分を出して書いてしまえばより悪筆乱筆の聴くに耐えないものになるだろう。自分の成長は、自分を否定した小学5年と6年の境からずっと止まっている。

いじめのせいとは思っていない。あの時の号泣がなくても遅かれ早かれ自分は否定されていただろう。もっとこの世界に適した生きやすい自分で生まれたかったと嘆いていないといえば嘘になるが、自分は自分であり何者にも変えられないのだから、たとえ大半を私として過ごしたとしても自分は墓場まで持っていこうと思っている。

いつかは自分と私の齟齬で破滅する身だが、それまでは私の哲学に誇りを持って人生を謳歌して、最期は自分の罪悪感にまみれて死にたい。